suginami
エッセイ:「私の内側/アナタの外側 inside of myself/outside of yourself」 展 @ 杉並会館、インドネシアでの作品展示に寄せて。

☆同展のオーガナイザー、並河恵美子さんの出品作家がそれぞれに「わたしと杉並」というアーティスト・エッセイを書く、という提案により、私は以下のエッセイを書きました。


「わたしと杉並」

 私にとっての杉並のイメージ、それは緑のコク−ン(繭)のようなものです。

2つの生殖細胞の、1億分の1の確率の出会いを経て生を受け、都内の大きな病院で母の 胎内からこの世に生み出された私は、杉並のみどりに包まれて育ちました。 海外にしばらく滞在した時と、京都の大学院に在籍した期間を除いて、私はずっと杉並に 住まいしているので、幼年期から今までの記憶の背景には、杉並の緑がいつも広がってい るのです。

物心ついて、私の身長が100cm足らずだったころの私の記憶にあるのは、陽を受けて 光る、緑の草原の一面の小さな草花たちに満たされた、視界の隅までを占領するきみどり いろの眺めです。その黄緑の色面の中から、葉や小花の繊細な色味の違いと輪郭の境目を 毎日何時間も飽きることなく追いかけて、目で描き起こし、小さく美しいものの姿の煌め き、小さい命の循環や変遷の観察に余念がありませんでした。
そうした草花の海を進む私 の足もとから、葉ずれの音を聞きながら、草いきれをすい込んで、私が前に進むスピード を確かめることを楽しんだものです。
私が、言葉で意識を編集することなく、世界をイメージの断片の連続で捉えていた頃のシ ーンです。

少し経って、近所の年長の友だちたちと、「ぐるぐるばなし」に興じたのは、住まいの後 ろの植え込みの、紫陽花の木の根元でした。そこで、「ひとり持ち時間1分ね。」と、お 話をその場で即興的に考えながら、ぐるぐる、ぐるぐる、皆の話をつないでいくのです。
拙い言葉が、溢れかえるイメージの断片を追いかけて、そのイメージの輪郭がつながると、 毎回なんだか少し恐いところのある、不思議な話ができ上がりました。記憶の中にだけ鮮 やかに残っている、言語によるコラボレーションの体験です。
話の創作に行き詰まると、空から言葉が降りてくるのを待つように上を見上げた視界の端 には、紫陽花の大きな葉っぱが逆光になって、うすみどりいろのひかりが差していたもの でした。

ちょうど同じ頃、住まいの前庭に父が育てた草花を、より近くで観るには、私はかがみ込 まなければならない身長になっていて、しゃがんだ膝に画用紙をのせて、目の前の花々の 輪郭を外さないよう息を詰めて線を追いかけ、紙の上に写し取り、描き上げていく時間を 長く過ごすようになりました。
自分の周囲から音が消える、深く緊張した時間の連続...や がて紙の上に写し取られて色を挿された花々は、そこに永遠の姿をとどめ、その行為と結 果から私がここに存在している証を確認しました。
私の存在を識るための、孤独で素敵な 方法の発見だったのです。これは、それ以来ずっと続けられることになりました。

ひょろりと背の高い少女期、父に木の名、花の名を教わった私は、ちょっとした植物博士 でした。
兄に続いて自転車の補助車がとれた頃、愛車(自転車)で神田川と善福寺川の周 辺に足をのばして観察したり、近所の、今はない梅林の中のひときわ見事な枝振りの紅梅 に、詩を捧げたり描いたりしていました。
こうして緑の繭の中で、私は夢想に浸り、それは精神活動としての絵画や詩を紡ぎ出すこ とになりました。 そして私の存在を識ることと、世界を理解し、知るための方法を、ずっと模索し、発見し 続けています。

杉並区内の美術大学の日本画専攻に在籍中、成人して間もない頃、区内に出来たばかりの 画廊から、グランプリの報賞として初個展を催しました。
それが、私が作品を通じて社会 的な発言をしていくはじまりとなりました。その頃、私が制作していた作品の共通タイト ルは、作意のない出合い/出会いにこそ純粋で至高な意味が生じる、といった意味合いで、 coincidence(不意なる出会い/暗号符)というものでした。
その後、父の死に直面したこ とからcoincidenceの前身であるincidence(発生率・事物)にテーマが移項し、’94年頃 までの作品共通タイトルはincidence-coincidence(発生率と偶発)としていました。

身長が175センチになったころ、私はニューヨークのP.S.1美術館に最年少の給費研究 員、スタジオフェローとして招かれました。
飛行機に乗って、杉並からだいぶ離れた異質な環境へ。
ここは、 アラナ・ハイスという女性が、60年代のアメリカの、一種のユートピア思想の香りをの せて、70年代に運営を始めたところです。
当時、ニューヨークに存在していた、かつて の公立学校で廃屋となっていたレンガ造りの大きな建物を、美術館と、世界中からア−テ ィストを招聘するためのスペースに改装した、いわば賢い「場所のリサイクル」の成功例 です。
今ではMOMA(ニューヨーク近代美術館)の運営の傘下に入ったP.S.1ですが、当時はア −ティストたちの自発的な活動によって地域や世界の文化の新しい活力を生み出していま した。 ここで過ごした期間の様々な体験は、私がアートの持つポジティブなちからを心から信じ ることを可能にしてくれました。
アートは、新しいコミュニケーションや、世界観の認識 の仕方、掴みかたを多様に拓くもの。そして世界を未来に向って少しだけでも良い方向に 導いていく大きな可能性があるものなのです。
いま、私達のいる地球は大きな混乱期にあって、晴れやかで明晰なヴィジョンを唱えたり、 信じたりするのがとても難しく、エネルギーが必要な時です。

このところ、私は、杉並の緑の繭のなかに居ながら、脳神経の拡張とされるメディア、イ ンターネットのデジタルデータに乗って遠くに出かけて行き、色々な国の、色々な肌の色 の、色々な性別の、色々な宗教の、色々な信条の、色々な哲学をもって生きている友人た ちと、アートとア−ティストができることについて話をしているところです。

もともと、画廊や美術館の目的で建てられたのではない、杉並会館での第一回目の展覧会 に参加することは、アートの持つポジティブなちからを心から信じることを可能にしてく れたP.S.1のことを、少し私に思い起こさせるものです。

今展では、私の「’セルフ’の構成要素」(Elements of 'self')という作品シリーズを中心 に、私たち、ヒトの身体の未来観をア−ティストの沖啓介さんと共同制作したbodyfuture の、コンピュータプログラムの部分の作品等も展示する予定です。

この機会に、生まれ育った杉並で、地域や世界の文化の新しい活力を生み出す方法と理解 し合う方法を、展覧会を通じて新しく知り合う「あなた」と考えて行きましょう。    

              2002年 10月 20日  鈴木 淳子記   杉並区高井戸の自宅にて。


杉並での展覧会のために書き、コピーの冊子としてカタログに付帯されたのは上記までの、実に光に満ちた幸福な部分だが、ここで幾つか加筆したい点がある。
最近、近所の杉並区立小学校の1つに姪を迎えに行ったり教えに行く機会があり、その際の過剰と言えるほどの校門の施錠管理にショックを受けたこと、心に施錠している記憶のファイルが開いたためである。

それは、小学校で長らく続いた陰湿ないじめにあった体験だ。
実にいまだに近所に住む、当時の”いじめの女王”の存在は私に多くのことを考えさせる。
彼女は何に特別優れていたのか分からないが、人心の掌握は驚異的に長けていた。
一人ずついじめの標的(クラスの中でどちらかと言えば目立たない女の子)を決めては陰湿に執拗に無視、いやな言葉を投げつけることをクラスのほぼ全員の女の子に強いた。
従わないものは即ち次のターゲットである。
小学校で彼女のお気に入りのひとりであった私は、確か私が10歳、小学4年生になった時、私はクラスの小宇宙の中で一時特別な存在になった。
ある種特別な力とオーラを得たと自覚した私は、そこで彼女にいじめをやめるように立ち向かった。
翌日の朝か彼女の徹底した周到ないじめの対象は、私になった。
それから毎日、無視、ヒソヒソ話、陰険な意地悪い言葉に曝され、私は痛めつけられていった。
それでも学校を休むことがなかったのは、自分へのプライドと家族への気使いと非難を受けることの恐怖のためである。
卒業まで長らく続いたこの体験は、結局誰からも助けや救いを得ることはなく、私の中の何かを決定的に破壊し、また私の孤独に耐える力を強くした。
自殺には、逃げと言うよりは憬れがあったが(これは芥川など往年の文学者の末路への憬れも2重に含んだ憧れだった)、踏み切るには生きることと同じくらいエネルギーを要するものであると悟り、また事後の家族への世間からの非難、家族からの私への非難を恐れて一線を越えずに留まった。
救済がなかったことは、実に30年以上も前のこの体験を私にとって生々しいものにしている。
普段は封印しているのだが、肉体的に疲れるとこのパンドラの箱の蓋が開き、私に痛みを与える。
そして”人々”がいかに恐怖に弱く勇気がないものかということを悟り、例え孤立しても自分で目を見開き、物事を見抜いて自力で検証して真実を掴む我慢強さを私に与えた。
自分を救うものは自分しかいないと思っていたが、最近になってようやく心の友達ができるようになった。
似たような経験を持つ日本とドイツの友人と、この特殊な痛みを分かち合い、そうして彼らと愛を感じあうことで、私は浄化され救われている。
2年前の大病の罹患、手術の体験は私を精神的に変えている。
心身の苦痛に耐えた投薬・入院期間、多くを一瞬の間許すこと、痛みを伴う想念から自分を遠ざけることで痛みから開放されることを知った。
ちなみに”いじめの女王”もまた苦しみを得て、精神科に通ってることを最近その母親から聞いた...。

そして今、再び杉並・日本を離れてこの体験を別の角度から眺めて検証している。しかし今は心を支える友を得て、違う視線で記憶を眺めている。
彼女のいじめの原動力は何だったのだろう? 今いちばんこれ、と思うのはおそらく性的なエネルギーの歪曲だと思う。
ドイツに来て、NAZIの時代の心理を思うとき、経済不況のフラストレーション解消のほかに、あれだけ多くの”人々”をあの行動の走らせたのは、思想コントロールのほかに性的なエネルギーの捌け口となったからではないかと思っている。つまり、彼らが浸ったのは〈快感〉なのだと思う。
NAZIの末路は皆がほぼ知るとおりで、ドイツでは4月20日、ヒトラーの誕生日にはあらゆる祝い事を禁じている。しかし私が懸念するのはヒトラーをの存在を封印することではなく”人々”がそれに従ったことをよく検証することに意識を向けることである。
衆愚はドイツに限って存在するものではない。
心の闇への考察に、豊かな言語と経験を以って正面から取り組む時期が訪れたようだ。

                                 2007年5月 ドイツ・ベルリンの自宅、キッチンの卓上にて。